大学院でのこと。

本日も過去blogからの転載でございます。とりあえず一週間、頑張った。


先日、おもに留学生を対象とした、食事を取りながらキリスト教の話をする会があった。
その主催者の人と一緒に毎週Bible studyをしている。
なぜか、僕が食前のお祈りをするはめになってしまった。
人前で祈るのは緊張する。
というか、あまり得意ではない。
もちろん英語だし。
「ごくカンタンでいいよ」ということだったので、「ごくごくカンタン」にしておいた。


会は、フロアから質問を受け付けて、パネラーがそれについて応えるというもの。
一生懸命聞いていたが、なんとなくしっくり来ないものがあった。
もちろんその原因の大半は、僕の英語力にあるのだけれど、それとはまた違うところもあるような気がしていた。


「信仰」を語るのは難しい。
というのも、それはカンタンに、押し付けがましい自己満足や、地に足の着かないオベンキョウの言葉になってしまうから。


大学院のときのことになるが、友達と自分達の研究のことやら、はたまたこの先の身の振り方についていろいろ話をしたことがあった。
僕は「ふんふん」と、ときどき意見を挟みながら、聞く側にまわっていた。
しばらくして、その友達は、「なんか言いたいこととかないの?」と聞いてきた。
「うーん。。。」
僕はちょっと考えたけれど、あんまり言いたいこともなかった。
「なんか、こう語りたいこととかさ、ないの?」と、その友達。


いろいろと「語りたい」ことはあった。
けれど、そのどれもが言葉にするとちょっとづつずれていって、一人歩きしてしまうような思いを僕は持っていた。
特にそれが、自分にとって大切なことであればなおさら。
もちろんそれは、僕の持っている「言葉」の非力さによるのだけれど。


「語るよりさ、生きる方が大事だよ。」
なんか、すごく”カッコイイ”言葉を口にしてしまった。
”なんかヤだな”と思ったけれど、半分以上は本心だった。


僕は大学院では社会学を専攻していて、その友達も、分野は違えど、社会学専攻だった。
そんなわけで、話の共通の土台はあったわけだ。


見田宗介という社会学者がいる。
僕がエントリでたびたびあげる名前だから、ここを見てくれている人には「ああまたか」という人もいるだろう。
彼は社会学という学問のことを「越境する知」と言っている(e.g.『社会学入門』岩波新書)。
細分化されていく学問の垣根を越えて、自身が探求すべきと思った課題をどこまでも追求することを許す学問。
それが見田にとっての社会学だった。
そしてそれは、一つのdisciplineであることを越えて、ある「生き方」を指し示していた。
僕はこの文章を大学二年生の時に読んで、社会学のゼミに行こうと決めた。


見田宗介という名前は社会学の間では、いわば大御所だ。
だから当然、社会学専攻のその友達も知っていたし、そして僕が見田の著作を愛読していることも知っていた。
僕は前述したようなことを口走った時、きっとその友達は「見田フォロワーが言いそうな言葉だな」と思っただろう。
でも、少なくとも半分は、僕自身の言葉でもあったのだ。
「見田フォロワー」としてではなく、キリスト者としての。
姦淫の女の傍らにあって黙って地面に何かを書いておられた、そんなイエスに従う者としての。


語ること、生きること。
決してそれは二項対立の事柄ではない。
ほんとうに何かを生きている者の言葉が、ほんとうに誰かを励まし、慰め、力づけるのだろう。
「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
という聖書の言葉の持つ意味は、あまりにも深い。

説教集 みことばを生きる

説教集 みことばを生きる

あなたに話したい (晴佐久神父説教集)

あなたに話したい (晴佐久神父説教集)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)