可塑性。

山口で大学生をしていたときのこと(もう五年くらい前のことか。早いなぁ)。
前にも書いたことのあるM学部長の授業。
発達心理学の講義で、たしか必修だったような。


人間の成長段階には、いくつかクリティカル・ポイントがあって、それまでに達成しないといけない課題(発達課題)がある、みたいな授業。
「三つ子の魂、百まで」みたいなことなんかなーと覚えています。


で、それだけだったら記憶に残らないですが、M先生はそれに付け加えてこんな事をおっしゃいました。
「確かに発達課題というのはあって、それは人間の成長にはとても重要。だけれども、覚えていて欲しいのは、人間には『可塑性』がある、ということです。」


可塑性。カソセイと読みます。
聞いたこと無かったコトバだったので、印象に残ったんだと思います。
変化の可能性、とでも言えばいいんでしょうかね。
英語だとplasticity.
プラスチックのあれです。


僕はこれを、「人間はいつでも変われるんだ」という風に理解しました。
たしかに、育ってきた生育環境、人間関係は、その個人に半ば「決定的」といってもいいような影響を与えます。
そしてよりphysicalには遺伝ということもあります。
けれども、人間はみずからの生きる環境に従属した存在としてだけあるのではなくて、それを主体的に再構築し、変えていく力を持っている。


そのとき問題になってくるのは、その「ベクトル」ということと、そしてその変化を来らせる内発的な「動機」ということでしょう。
今道友信先生的に言えば、「あこがれの矢を放つこと」とでも言えますかね。


僕たちの「あこがれ」は、具体的には、一人ひとり違う。
はっきり見えている人もいるし、おぼろけにしか見えない人もいる。
けれども、その「あこがれ」を想い、そしてなおかつそれに向けて「矢を放つ」、放ち続けるということが、僕を含めた中途半端なニヒリズムに安住しがちな現代人にとって必要なことなんだろう。
それは<いま・ここ>にのみ埋没してしまう生を彩ってくれるものでもあると思うし、目に見えないものを「信じるこころ」を切り開いてくれるものでもあると思う。
そして最も大事なのは、その「あこがれ」を想う心はすべての人に与えられているという事実だろうと思う。

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