「変わる」ということ。

今日は日ごろあんまり日本語を使ってないんで、うさばらし(?)にちょっと長めでカタめのエントリを書いてみました。


人は、「成長する」と同時に、「変わる」ということも経験すると思うんです。
そして、この二つは質的に随分と違う気がします。


「何か変わったねー」
っていう言葉は、夏休み明けの学校とかでよく聞かれる言葉だと思います。
一瞬の出来事が、一冊の本・一人の人との出会いが、人を根本から変えてしまうということは、あります。
そして、それは良い方向にも、そして悪い方向にも人を導きうるものでは、あります。


「ここではない『どこか』」
「今の自分ではない『誰か』」
このテーマは流行歌(という言葉ももはや死語ですね)にたびたび現れるように、人々の意識に広くいきわたっている願いなのだと思います。
つまり、多くの人は心のどこかで「変わりたい」と願っているということ。


一方で、「変わりたくない」とどこかで願っているもののような気がします。
「変わる」ということは、ある意味でそれまでの自己を否定すること。
僕らは自分で自分の全てを否定できるほど強くはないし、また、そんな取るに足らない自分であってもそれなりに生きてきたという自負をも持っています。


自己否定の願いと、自己肯定の願いの相克。
この間で、近代以降という社会をを生きる僕らは生きています。


僕の周りにいる人たちを見ていて思ったことなので、普遍性があるかどうかわかりませんけども、彼ら・彼女らの多くに、そうした「変わる」ことへの「恐れ」といってもいいような感情を感じます。
それは、具体的には「ずっと学生でいたい」とか、そういうことに表れてくるのかもしれません。
しかし、それ以上に、「自分を愛するあまり、自分を傷つけている」といえるような、「自己への疎外」がみられるように思います。


自己にとらわれるあまり、結果として、自己を傷つけている。
「今ある自分」の姿にとらわれるあまり、自分の可能性の広がりを信じられず、またその茫漠さに戸惑いや恐れを覚える。
その茫漠さよりは、「今ある自分」の確かさに退避し、耽溺する。
僕には、そうした心象は、現代を生きる私たち(若者ばかりではない!)に普遍的なものなのではないかと思えます。


僕はかつて、ある文章に「ニヒリズムとエゴイズムの相克」と書いた事があります。
それは社会学者の見田宗介氏の影響下にある文章ですが、ニヒリズムとエゴイズムはいわば手を取り合うようにお互いを増幅し、この時代に生きる僕たちの精神を蝕んでいるというのが趣旨でした。
僕じしんがその最中にあって、かって心を半ば病んでいたことがありました。
その僕にほんとうの意味で「光」となったのは、キリスト教の神なのですが、そういう「宗教的」な言葉でなくて言えることはたくさんあります。


人の弱さ(vulnerability)は人の可能性と豊かさを開いているものであるということ。
弱さゆえに、人は「他者」を必要とします。
そしてその「他者」との出会いのなかで、人は自分の生を生きているのだということ。
その際の人間観は、「強い自立した人間」などではなく、よりリアルな「弱くときに愚かな人間」であるということ。
言い換えれば、フォーマルな組織型ではなく、ラフなネットワーク型の人間とでも言えるでしょうか。
現実の僕達が後者であればこそ、多様な他者(その他者もまた「弱さ」を抱えた他者である)とのかかわりが担保される。
そしてその「出会い」の中で、僕達は多様な生き方に目を開かされ、自分の世界観や価値観の変更を迫られるということ。
簡単に言えば、人は「変わる」というよりも「変えられる」のだ、そしてその変更の主体は常に自分の「外側」からやってくるのだ、ということです。


ま、これは言ってみればごくごく当たり前の事実ですけどね。
でも、僕を含めて、自分/自我ということにこだわりを持ってしまうタイプの人にとって、こういう「事実」はきわめて解放的な響きをもつと思うんです。
そしてその「解放」を求めている人は、僕は少なくないどころか随分と多いように思っています。

あなたに話したい (晴佐久神父説教集)

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社会学の根本問題―個人と社会 (岩波文庫 青 644-2)

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現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

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ジンメル・つながりの哲学 (NHKブックス)

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