第二章。

第一章からのつづき。


「今僕らが誰かに望むのは たぶん本当のことを話してほしいだけ」
サンボマスター、『歌声よおこれ』


大学二年の終わりごろまで、僕はどこか夢を見ているような男だったように自分で思う。
簡単に言って、”身の丈”を知らなかったと言うこと。
それゆえに己の身の処し方が分からず、あちこちにぶつかっては勝手にふさぎ込んだり、過剰に気を使ってくたびれたりしていた。
そしてその愚かさを「純粋」という言葉で正当化しようとしている僕がいた。


自意識の過剰とアンバランス。
今となってはまったくカッコ悪いことこの上ないのだが、真実であるから仕方が無い。
感謝すべくは、そんな僕に対して愛想をつかさずに面白がってくれた友達の存在だ。


出会うもの、出会う人、出会うすべてが僕にとって新しかった。
新しい土地で、新しく人に出会った。
新しい恋もした。
しかしそれは、今になってみればまともな恋愛とは言いがたいものであった。。
よく言って率直大胆な、平たく言って自身の感情を一方的に叩きつけただけの、ある種の自己満足であったように思う。


そうした自己満足な「恋愛」を繰り返していたとき、友達からきっぱりと「ダメ出し」をされた。
「てんで駄目だよ」と。


はっきり言って、僕は子どもだったのだ。
自身の動機や思いの「純粋さ」にのみ目をとめ、伝えること・伝える相手への配慮はからきし無かったと言ってよかった。
バカみたいだが、それほど幼かったのだ。


「純粋」という言葉は、時に人を誤らせる。
そして動機において「純粋」であるとき、人は最も深く誰かを傷つけることができるのだろうと思う。
愚かなことだが、僕はその類の人間だった。
そしてそのことを知ったとき、僕は深く恥じ、深く悔いた。


誤解を招くかも知れないが、良くも悪くも、あの時ほどに鮮烈に感情がほとばしる瞬間は、今はそれほどは無い。
しかし今の僕は、後悔と共に懐かしく思い返すことはあっても、あの時の自分に戻りたいとは思わないのだ。


無知ゆえの奔放さと自由が持つ力は知っている。
そして、そういう一瞬の情熱の発露は確かに”美しい”。
けれども、それは傲慢や不遜や自虐と表裏一体なのだ。


それ以降の僕は、少なくとも自分の中では変わった。変わってしまった。
平凡な毎日を淡々と、しかし大切につむいでいく営為にこそ、生きることの喜びと素晴らしさはあるのだと思えるようになった。


例えば、まっとうに・真っ直ぐに、自分や社会のことを考え受け止めること。
ほんとうに誰かのことを大切に想うこと。
何かに開き直るのでもなく、今の自分に出来ることをきっちりとやるということ。
熱情に浮かされるのでもなく、卑屈になるのでもなく、地に足の着いた自分の歩みをしていくということ。


この至極当たり前で、平凡すぎて誰も口にすらしないようなこと。
僕が思い違いしてわけの分からないことを口走っていたりしていたとき、他の皆はこのことと闘っていたのだと深く知った。
「あぁ、俺は間違っていた、根本的に間違っていた。」と思った。


このとき、僕はようやくスタートラインに立つことが出来たように思った。