ケチ。

今日も今日とて、教科書にケチをつけながら読んでいる長介です。


なんかひとつ分かった事がありまして。
「なんでこう、今ひとつ神学の説明の仕方に納得がいかないのか」ということに関して。
とどのつまり、”議論の反証可能性があるかどうか”ということなんだと思うんです。
scienceだったら、まず仮説があって、概念の定義があって、それで議論が進んでいって、結論に至る、という風になっていくと思うんです。
「この作業仮説の範囲内の議論において、自分の説明が論理的であるかどうか」、「その議論が他の人にも開かれており、可能であれば追試をすることができ、他の状況においてもその議論が適合するかを吟味できるかどうか」ということです。


けど、神学は(といってもまだまだちょっと齧ったばっかりですが)そういう議論の仕方を取らない。
なんというか、肝心のところで『たとえ話』になったりする。
肩透かしされちゃってる感じがして、「何とでも言えるんじゃないか」って思っちゃうことも無きにしも非ずで。


学問そのものの態度も反映しているのかもしれませんね。
科学は、もちろんその最終的な目標として、全体的な視野を得ることを目指してはいますけども、対象と方法の限界ゆえに、それが実質的に不可能である事を自覚しています。
だから、科学万能っていうのは、言葉としておかしいんですね。科学はそもそもが万能ではありえない。
逆に、その対象と方法の限界の内部では厳密さが要求されるわけで。
神学分野では、どうなんでしょうか。
これからちょっと見定めていきたいですけどね。


「科学の時代に、宗教や哲学には何の意味があるのか」という問いがあります。
僕は、この問いは問い自体がナンセンスだと思っています。
学問にはそれぞれのフィールドがあるのだから、それぞれの学問は相互補完的な存在であるということに尽きます。
それは逆に言えば、それぞれがそれぞれの学問のフィールドを認識し、お互いに敬意をもって接しあう(侵しあうのではなく)ことが必要なのだということです。


あぁ、早く寝なきゃ。。。

学問のすゝめ (岩波文庫)

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