師匠。

今回も昔のブログからの転載。若干加筆修正しました。
長いのでヒマがある方だけどーぞ。


かつて通っていた語学学校で、下のような宿題が出ました。
"Talk about a favorite teacher from your past and explain why that person was so important to you. What made him/her a great teacher?"


僕にとって、「師」と呼びたい人は何人かいるのだけれど、その中で一人を挙げろと言われれば、山口で大学生をしていたときの指導教授になる。


T先生は、まだ四十台前半のいわば気鋭の研究者だ。
僕がゼミ生だったころは、まだ助教授だったけれど、今は早くも教授の肩書きをもっている。
専門は農村社会学と福祉社会学。もっとも、先生は「専門は何かって聞かれたら『地域社会学』って答えるべきなんだろうけどね」とおっしゃっていたし、都市社会学の専門雑誌に論文を投稿してもおられるから、客観的に言えば地域社会学なんだろう。
でも、僕はT先生ほどに農山村とそこに暮らす人々に思い入れというか「愛」(この言葉をここで用いることは間違いではないだろう)のある研究者を知らない。そういう意味からすれば、”中性的”な”地域社会学者”という言葉よりは、やはりT先生には”農村社会学者”の方が良く似合う。


田舎の生まれでありながら、僕はT先生によって初めて農村・村落の持つ重要性や「豊かさ」に目が開かれた。
高度経済成長を端緒として過疎化が急激に進み、その結果”捨てられた”地域であるかのようにみなされることが多くなった、農山村。
しかし、都市住民がつくりあげているそれぞれの社会的ネットワークには、今日でも驚くほどそうした”捨てられた”地域とのつながりが残っている。
ある人はそれを”しがらみ”と表現するだろう。またある人はそれを”あたたかさ”と言うだろう。いずれにしても、都市住民の生活には意外なほど”地方”(僕はこの言い方は好きではない)の生活が反映している。”地方”は都市に従属するだけの存在ではないのだ。


また、T先生から宮本常一を教えていただいたことは僕の”地方”観を、そしてものの見方を根底から変えた。
宮本の庇護者であった渋沢敬三が「宮本君が歩いた跡を赤インクでたどれば、日本地図が真っ赤になるだろう」と言わしめたほど、きわめてアクチュアルな方法論から独自の民俗学を作り上げた偉大なる「世間師」宮本のことを、T先生はとても尊敬しているようだった。
おそらく、「最も影響をうけた研究者は?」と聞けば、T先生の師匠である社会学者・鈴木広先生を真っ先にあげるのだろうけれど、宮本の名前は次かその次くらいには来るのじゃないだろうか。


僕はT先生の研究の姿勢にその宮本と同じ姿をみた。安易にアンケートをばら撒いて統計にかけて、出てきた数字をこねくり回して・・・というのとは対照的に、一人ひとりに丹念に話をきくという調査。その個人が語る個人史が持つ重みと豊かさにこそ聴くべきだという姿勢に、僕は静かに打たれていた。
それは職人技に近い事柄であって、誰もがカンタンに習得できるものではない。しかし、だからこそ社会学者はその専門性が試されるのであって、社会学者は大学に雇われたサラリーマンではないのだ、ということを思わされつつ卒業論文を書いていた。


T先生は、かって「農山村に住む人が減ると一緒に農山村を研究する学者も減っちゃった」というようなことをおっしゃったことがある。この言葉には、鈴木広先生が現在の社会学の研究動向について「流行への過敏症」と喝破したことと通底するものあるし、そしてそうした潮流について単に嘆くのではなくて、社会学者たるもの一度しかない自身の生涯を通してほんとうに追求すべきものをこそ追求すべきだし、自分はその「闘い」に参加しているのだという自負も含まれているように感じた。


T先生のエピソードは思い出してみると書ききれないほど多い。
ご飯をご馳走になったり飲みに連れて行っていただいたときの一言。クレージーキャッツの素晴らしさを熱心に語っていた一面。進路のことで真剣に考えてくれたときのT先生の姿。などなど。その中からいくつか書いてみる。


先生がまだ大学院生だったころ、社会調査で鈴木広先生に同行することになった。
「何か飲み物を」と頼まれたT先生は、「コーラなんか買っていったら怒られるな」と思い、ジュースを買っていったそうだ。
鈴木先生は、"Sociological Imagination"の翻訳者であり、また授業で「私が社会学です」と豪語した逸話を持つ。個人の生活に浸透する社会構造と、それを作り上げている個々人の営為の相互連関にまず目を向けることこそが、社会学者としての第一歩だ!・・・というようなことを言っている"Sociological Imagination"を翻訳した鈴木先生に、コカコーラなんかを買っていったらどうなることか、想像してもらいたい。
さて、ジュースを手渡された鈴木先生は、裏ラベルを見て一言「ん、果汁10%か。じゃ90%は毒だな」とおっしゃったそうである。


またこれは僕がT先生の過疎農山村の調査に同行させてもらったときの話。
聞き取り調査を終えて帰り道、放課後の児童の遊び場として開放されている集会所を見に出かけた。そこでのT先生と保護者との会話。
T先生「さっき○○公園の駐車場の前を通ったとき、小学生が二人だけいたんだけど、彼らはここには来ないの??」
保護者「Mのところの子でしょ。あんまり来ないですね。親御さんも働きに出ちゃってるし。」
T「うーん・・・。心配になりますね。ちょっと気にかけてあげてくれますか。お願いします。」
Mというのは、直前まで僕らが調査していた集落だった。そこはその村の中でも一番奥まったところにある集落で、ただでさえ交通手段の限られるその村の中でも、とりわけ行き来しにくい集落だった。
僕らはその二人の小学生のお婆さんからお話を伺っていたのだ。その家庭の状況は決して穏やかではなかった。そのお婆さんは、終始穏やかな口調でお話してくださったが、その穏やかさはどこか諦念に似ていた。そういう状況に生きる人の歩みの重たさと、ある意味でのたくましさとに考えさせられつつ帰途にあったわけだが、思わぬ形でその人の生活に再び触れることになったわけだ。


T先生はごくごく当たり前のことを言ったのかもしれない。しかし当時の僕にはとても新鮮にそして重く響いた。
僕はT先生の言葉に、「研究者」としてのT先生と、「ひと」としてのT先生の両方の姿を一緒に見た気がした。
その集落の状況と危機は手に取るように分かる。そしてあの家族の状況ももちろん。そしてそれゆえに、彼らの家族の危機をも深く感じている。研究者としての責任と、ひととしての思い。僕はT先生のあの短い言葉のうちにこの二つを見た。そして、「この人はこの二つにズレが無い」と感じた。


もう一つ。
学部の頃、僕は「社会学読書会」を主催していた。主催、といっても最大6人くらいの人数が集まったくらいでたいしたことは無かったのだけれど。そのときにも、忙しい仕事の合間をぬってT先生はコメントをしに来てくれた。
卒業するとき、後輩が記念に読書会にまつわる小冊子を作ってくれた。その中にT先生が書いてくれた一言。


社会学者は幸せであるか。』


それをもらったとき、僕は大学院に行くことが決まっていたように思う。しかも違う大学の大学院に。それを勧めてくれたのはT先生だった。
「研究者になる。」あまりの実力の違いに気がつかされて途中で断念することになるのだが、そういう思いを当時は抱いていた。そういう僕にかけてくれた言葉、『社会学者は幸せであるか。』
この言葉は放つ人にも跳ね返ってくる言葉だ。安易な答えを許さない言葉だ。
社会学者は幸せであるか。』
考えてみたら、僕は大学院の二年間、この問いの中を歩んでいたように思う。


社会学者は、人や物事に対自的にならざるをえない。それを自分の生きる道と選んだ人こそが、『社会学者』と名乗るにふさわしい。しかし、それはある意味で平板な意味の『幸福』を放棄することである。そうした『幸福』は真理ではないとして、さらなる問いのなかへ突き進んでいくことを潔しとする人間こそ、『社会学者』たるにふさわしい。逆に言えば、そのような問いの中を生きることに『幸福』を見出す人間こそが、『社会学者』なのではないか。
いわば、『社会学者』は幸福「な」道ではなく、幸福「への」道を歩むことを決断した人間に与えられる称号のようなものではないか。
T先生からのメッセージを僕はこういう風に受け止めた。
まだ先生の真意を尋ねたことは無い。そして当分そうするつもりもない。T先生からの問いかけを通して始まった歩みは、僕にとってはまだ始まったばかりだから。


出会いが人を変える。それはあまりに使い古された言葉。
しかしそれは本当なのだ。あまりに本当すぎて面白みが無いほどに、本当なのだ。
T先生は社会学者を生きておられる。社会学者として生きておられる、そう僕は思う。
この人がなければ、今の僕は無いと断言できる。
僕は、こういう師に出会えて、こういう生き方を教えてくれた師に出会えて『幸せ』者だと思う。