in different contexts

授業が始まりました。
神学の基礎を学んでいます。


授業の中で、「『神を信じること』が問題なのではない、『どの神を信じるか』が問題なのだ」と先生は言っていました。
それは、カナダとかアメリカとか、キリスト教がバックグラウンドにある環境ではそう言えるのだろうとは思います。
また、いろんな意味で宗教が注目を集めている今日では、そう言ってもいいかもしれません。
けれど、日本ではどうでしょうか。


また、今日の授業では「三位一体」が取り扱われました。
授業を受けながら思ったことは、「これほどに論理的説明が困難な事柄に対して、必死になってその『解』を求めようとする、その熱意はどこから来るのか」ということでした。
日本的ないし「東洋的」文脈で言えば、宗教的真理は論理的理解を超えて、半ば直感的に把握されるものでしょう。例えば、「悟り」とか。
そこでは、論理はむしろその境地へ至るための障害物ともなりえます(i.e.「考えるな、感じろ」)。
一方、キリスト教で言えば、例えば三位一体というdoctrineを理解・説明するために、哲学やら科学やら、他の学問の知見を動員までしてなんとかすっきりした体系にまでこぎつけようとします。
もちろん、「最後の一点」は人間の側からは説明しつくすことはできないのですけれど、そこに至るまでの熱意・情熱は、一体どこからやってくるのだろうかと、半ば驚きつつ、不思議に思いました。
僕じしんそうした「東洋的」感覚を身に付けているために、すこし違和感に似た感覚を覚えたのだと思います。


福音の文脈化(contextualization)ということとは少し違う、福音を受け止める私たちに半ば既にbuilt inされている「感覚」とでもいうものに、すこし考えさせられています。