授業終了。

終わりました。。。いろんな意味で。
勉強がまだまだまだまだ・・・足らないことを痛感いたしました。
ホント、英語圏に生まれた人はそれだけで得してるよ、とか愚痴りたくなる今日この頃。


今日は、「質問するぞー」とかって頑張って。
旧約を読んでいて痛感することは、神の権威・力と人間の浅ましさ・弱さがこれでもかと書かれているということ。
と同時に、こういう神と人との絶対的な距離感という「事実」に対して、僕の親しい人を含めて、多くの日本人はどういう反応をするのだろうか、ということ。
死んだ人がすぐ「カミ」(Godとはニュアンスが違うのかもしれない)になってしまう日本の宗教的文脈(boundaryの無いgradation)にあって、この差はどういうふうに受け止められるのだろうかという疑問というか不安というか。
そんなことを質問いたしました。


午後、録音しておいた日本FEBCの番組『神学講座 主イエス・キリスト』をiPodに入れて、coffee shopにて聴く。
異端との闘いにおいて正統信仰は確立されていったという事実。
ラディカリズムあるいは純粋主義の陥りやすい過ち。
瑣末とも言えるような議論の中で、一体何を守るためにそれが続けられたのかということ。
久しぶりの日本語の講義にて、心安らぎました。


中村一義の『キャノンボール』をひっさしぶりに繰り返し聴きつつこれを書いています。
「そこで愛が待つゆえに。」というリフレイン。
しかし、僕らの生きるこの時代には、現実には「そこ」も無いし、「愛」も待ってはいないことを中村君はきっと知っている。
いわば、「どこにも愛はない」ということを知っている中村君。
にもかかわらず、彼は繰り返す。
「そこで愛が待つゆえに。」と。
僕らがこの曲を繰り返し聴く時、「愛」は「そこ」を指し示す「ここ」にこそ宿るのだと気づく。


よし、明日からまた頑張ろう。