方法論としての神学

自分へのメモ。
他人が読んでも詰まんないと思います。
しかも間違ってると思うし。
>識者の方
ご指摘大歓迎でございます。


神学というのは、McGrath曰く、

"To study theology, therefore, is to think systematically about the fundamental ideas of Christianity."
Theology the basics

なのだから、systematicallyな学問、神についての論理整合性を in Christian context で追求する学問だということなんじゃないか。
とすれば、その論理をつむぎだす主体の問題が問われなければならないはずなのだけれど、これまで読みかじった限り・聞きかじったかぎりではそういう問題は不問に付されているというか、「罪人」の一言で済まされているような気がする。
僕が言いたいのは、その「罪人」である人がどこまで神の絶対性に到達できるのか、ということ。
もっとも、神のomnipotence, omniscience, omnipresenceを前提にしないキリスト教神学というのはありえないだろうし(liberal theologyでは違うのかな)、そういう意味では不可能性を前提とした学問であるのだろうけれど。


また、一つの神学体系(e.g. Catholicism, Calvinism, Lutheran)を打ち立てる時、あるいはそれに準拠する時、それが一つの準拠枠組み(reference framework)でしかないという共通理解というか、前提はないのだろうか。
いやむしろ、その前提の、「客観性」ということへの疑問というか断念というか、そういう意識はあるのだろうか。
社会科学を学んできた者として、「学問は仮説」というのが染み付いてしまっているし、それはある意味でひとつの倫理にすらなっているから、そういう一つのframeworkに固着する理由が僕には全く分からないし、それは「真理」の一側面でしかない=神のすがたの一部分でしかない、という印象しか残らないのだけれど。


だから、僕はBarthの啓示する神という言い方に究極的には同意するし、せざるをえない気がする。
というのは、そういう人間がこしらえたframeworksを向こうから勝手に突き破ってくるのが神であるし、そういう出会い方をしてしまうのがキリスト教信仰だと信じるから。
だから、●○神学に固着する理由があんまり分かんないんだよね。
「それがどーした」と姿をぼーんと表してくるのが、キリスト者の信じている神じゃなかろうかと。
なんか、神を自分の大事にしてるschemeに閉じ込めてるというか、自分が理解できる範囲で理解しましょうという感じがして(これはこれで、人間の認識論の限界というか、現象学的な世界把握のあり方と繋がる感じがするので、一つのテーマになりうるかもしれないけれど)。
そういう意味で、限定的ではあるけれど、ペンテコスタルの聖霊の把握の仕方、つまり能動的な神というのは、アリかナシかといえば、アリだ。


もちろん、学問としての神学の営みを無にするつもりは毛頭なくて。
「どーせ人間にはわかりっこないんだからさー」という軽度ニヒリズムは、たちが悪い。
そうではなくて、そういう限界を意識した、「再帰的」(reflective)な営みであり続けることができるのか、という問い。
これは結構辛い作業だと思う。
どっちにも振り切れる事が出来ないから。
つまり、「どうせ分からない」と「俺には分かる」の間に立ち続けることを迫られるから。


神を問うには人間が持っている道具立てはあまりにも貧弱だ。
けれども、その貧弱な道具で見つめようとする時に、神は向こうからこちらを照らし出すのではないだろうか(e.g.Psalm 119: 130)。

み言葉の放つ光に生かされ―一日一章

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