宮台真司 dialogues×blog ロングインタヴュー

↓に収録できなかった後書きに代えて、ロングインタヴューが掲載されています。

宮台真司ダイアローグス〈1〉

宮台真司ダイアローグス〈1〉

インタヴューはこちらから
または、miyadai.comの該当ページから。
個人的にはvol.4と5と6が面白い。
ちょっと引用。
vol.4より

宗教の機能分析をする立場から言えば、オウムを含めてありとあらゆる宗教は、存在する以上は社会的機能や人格的機能を果たすという他ない。もちろん機能の中には肯定的なものも否定的なものもある。否定的機能なものは代替したり補完すればいい。否定的機能と一緒に肯定的機能も流し去ってしまうと副作用が生じる。でも宗教の肯定的機能を語る室生さんには再帰性がない。だから「あるべき宗教」の信念を語るだけになる。

「宗教的であること」と「宗教者であること」は確かに違う。宗教的存在が敢えて世俗にまみれて非宗教者として振舞うこともあるし、宗教者然として振舞う存在が実は宗教的存在からほど遠いこともあるからね。

宮台は実は社会学者のふりをした宗教者なのではないか。社会学者は仮の姿じゃないか、と。

vol.5

僕は昔は青臭かったから、旧教新教で言えば新教の方が教義学的に深くてピュアだと思った。今は逆に旧教が優れていると思う。

文脈に対して開かれていることは〈世界〉の根源的未規定性に開かれるための必須の構え。「よく分からない何か」を残すところが旧教の深さだ。つまり旧教はオブセッシブじゃない。むしろオブセッションを積極的に否定するんだ。

映画評論集『絶望・断念・福音・映画』でも、旧教的世界観の映画は肯定するけど、新教的世界観の映画は肯定できないと書いた。言っていることが正しくても、〈世界〉に対する構えが誤りだと。要するに、原理主義が嫌いなんだよ。

他の宗教関係者にも創価学会を見習ってほしい。教義はどうでもいいから、若い連中が置かれた状況を見てくれ。ひきこもりも、リスカのような自傷行為も、あれこれのアディクションも、見てくれ。それについて書かれた本もたくさんあるから勉強しろ。その上で、何が今日的な救済たり得るのかを研究してくれ。こうしたプラグマティズムと接合して初めて教義も隠喩的に深いものになるのだから、と。ここから先は旧教の話に似るけど、人を救いたいなら教義を曲げてもいい。リテラルな理解を引喩的な理解に置き換えればいい。