西部邁氏、保守思想を大いに語る。

日本で今「保守思想家」として通用している人は、転向右翼が多い。
清水幾太郎がその有名なケースだ。
こうした「転向」といったことに、かつて僕は、その思想的一貫性の無さに軽蔑の念をもっていたのだけれど、今はそうした転向を再帰的で自覚的な思想的営みでもあると考えていて、位置づけはちょっと変わっている。
西部邁氏も、そうした「転向右翼」の一人だ(追記:氏自身はご自身のことを「真正保守」と呼んでいる)。


第307回 マル激トーク・オン・ディマンドで西部氏は、今日の日本での自称保守がいかに思想としての「保守」から遠いか、ということをわかりやすく語ってくれている。
福田恒存の『人間・この劇的なるもの』の愛読者だったりする僕としては、比較的親しい内容が多かったけれども、氏の饒舌な語り口に再確認させられることは確かだった。
特にヨーロッパの保守とアメリカの保守のねじれ関係は面白いと思った。


社会福祉を学部で学び、都市社会学を大学院で学んだ僕は、そのバックグラウンドからすれば、思想的には「左翼」的傾向があることは否めない。というか、否む必要もない。
左翼側の思考がこれまでに創出してきたものの中には守るべきものはかなりあると思っている。
しかしそれらを全て否定してやまない傾向にある今日の日本にあって、その良い部分を保持しようとすることはなかなか大変だ。


と同時に、保守思想の底流に流れている人間観、社会観には、左翼ないしリベラル派が思考してきたものではとても太刀打ちできない強靭なものがあることは確かだ。


端的な例が人権という思想だ。
人権とは、客観的に外在的に存在するのか。
僕は、それがある「かのように」生き、行動することによって僕らの生活を守るためのツールとして、人権は「ある」と考えている。
けれども、それが例えば人の居ない砂漠の真ん中にあるかというと、それは「ない」。
それはだから、理念なのだと思う。
「あれかし」と希求しつつ行動するなかに、かもし出されてくる何かなのだと思う。
いわば、理想主義と現実主義の相克の只中にかろうじて保持される危うい(あるいは怪しい)何ものかなのだと思う。
それゆえに、「人権なんて無い」というstatementは確かに「正しい」。
しかし、それはrightという意味ではなくて、現実の記述として正確だという程度の意味でだ。
人間が情念を持ち、欲望を持ち、願いを持ち、意志を持つものとして生きている以上、現実の記述のみで私たちの生が包括されるものではないことは当たり前のこと。
そのような現実を超える何ものかを求める生を生きてしまう人間に対して、「そんなものは実体としてありはしない」というのは、批判になり得ないと思う。


ともあれ、ネオリベ的政策をして保守だとする保守の矮小化の潮流から離れて、保守思想のもつある種の深さをもっとよく知るべきだと思った。

無念の戦後史

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人間・この劇的なるもの (中公文庫)

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倫理学ノート (講談社学術文庫)

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