雨ニモマケズ


僕は中学校の頃、宮澤賢治をひたすらに読んでいた。
当時、賢治生誕100年とかで、本屋さんでコーナーが出来てたりしたこともあって、文庫本を集めて買っていた。
その文庫本は、まだ実家に残ってるはず。


賢治の作品で一番有名なのはなんだろう。
銀河鉄道の夜』だろうか。そうかもしれない。
この作品が所蔵されている文庫本は、かなり手垢が付くくらい読み返した。
賢治の世界観というか、宇宙観というか、そういうものが描かれている作品。
そして賢治じしんが『童話』というスタイルによって自己のそうした本質を表出したということは、僕にとっては興味深い。


銀河鉄道の夜』と同じくらい、僕が読み返したのは、賢治の詩集の『春と修羅』だ。
タイトルからして「凄い」と思った。
表題の「春と修羅」という詩は、是非ぜひ読んでもらいたい。
一般的な賢治のイメージと思われる、「素朴」「朴訥」といったものがブチ壊される。

おれはひとりの修羅なのだ
 『春と修羅

という叫びに似た「情念」は、現代の青年にも広く当てはまるのではないか。


僕は長らく賢治を読んでいて、よく分からなかった詩があった。
それは有名な『雨ニモマケズ』だ。
あまりに有名で、時に刻苦勤勉の例として引用されたりすることもある詩だけれど、何かそういう理解は違う気がしたし、ほとんどがカタカナで書かれているということが何か不気味ですらあった。
そしてなによりも後半の

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ

ということが全く分からなかった。


賢治がなりたかった「デクノボー」とは、皆に褒められもせず、苦にもされない存在である。
少雨の夏にも、極寒の冬にも、なんら役に立つことの出来ない存在である。
平凡・凡庸という域を、どこか越えている。
「サウイウモノ」になりたい、とは一体何なのか。


今の僕は、少しだけその気分が分かるような気がする。
「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」かどうかは分からないけれど、そこに込めた「物凄さ」のようなものを分かる気がする。