discipleship

『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。』マタイによる福音書 16章24節


僕にキリスト者として生きることのゆたかさと厳しさを教えてくれた人は多くいる。
その中でも、かつてお世話になっていた教会の牧師婦人の言葉ほど、僕の中で響き続けているものは無い。


その牧師婦人は、本当に「祈りの人」と呼べる人だ。
全ての弱さを、祈りのうちに投げ出して祈れる人だ。
そしてその祈りがきかれることを確信して祈れる人だ。


その彼女が、僕が大学進学を目前にしたある日曜日の午後、僕に向かってこう言った。
何かを見抜いたかのように。


「信仰から離れちゃだめよ。」


表現としては、きわめて平凡な、ありがちな、信仰者の励ましの一言である。
けれども、きっと彼女は、僕の内側にある「信仰という形をまとった傲慢さ」を見抜いていたのだろう。
案の定、僕はそれからしばらく信仰から離れてしまった。
それ以上に、自分の心の中で、それまで信じていた神を殺していた。
「あれは一種の気の迷いだ」と。


そうした棄教者を気取る生活の中で、ふっと頭によぎる思いがあった。
それは、「わたしにとってイエスとは誰なのか」という問いと、あの牧師婦人の一言だった。


大学院に入学ししばらくたってから、改めて自分にとって信仰とは何なのかを問い直す中で、再びキリスト者として歩みなおすことなった。
後日、かつて通っていた教会に足を運んだ。
僕はほぼ四年近く、その教会に一通の手紙・メール、一本の電話もしなかった。
それどころか、その間、その信仰を自分の中で抹殺しようとしつづけていた。
教会に着き、かつてと同じような顔ぶれに出会い、そして以前と同じように礼拝に臨んだ。


礼拝が終わり、ところどころで談笑が始まった。
僕は牧師に挨拶をし、これまでのこと、今の思いを打ち明けた。
その後、牧師婦人に会った。
彼女は開口一番、「祈っていましたよ」と。


僕は、祈られていた。


僕は、その四年近くの間のことを、空白の期間だと思っていた。
だがそれは違った。
彼女を含め、多くの人の祈りがそこにはあった。
僕の弱さと過ちを埋め尽くすほどの、多くの支えがあったのだ。


そして、今の仕事に就くことになった。
また、その教会に報告に足を運んだ。
たしか、礼拝中にその旨を報告したように思う。
礼拝後、何人かの人と談笑した。
「おめでとうございます」という人がいた。
「頑張ってね」という人もいた。


牧師婦人が僕のところに来て、「お祈りしましょう」と言った。
二人で祈った後、いつになく真剣な表情をして、彼女は言った。


「もう後戻りは出来ませんよ」と。


そうだ。
この道を行くことを僕は決めたのだ。
いや正確には、この道を行くようにと整えられてきたのだ。


それはヒロイズムではない。
それは悲壮な決意でもない。
あるのは、静かな決意である。
そしてその思いを先に与えられた者の一人として、その牧師婦人は静かに僕に語ったのだ。
「もう後戻りは出来ませんよ」と。


地平線の見える喫茶店で、コーヒーを飲みながら僕の行く先を思った。