自明性の解体。「幸福論」へのメモ。

大学、大学院と「生きがい」を中心テーマに学んできた。
つまり、幸福に生きるというきわめて抽象的で、かつ青臭い問いを、社会科学の手法によって出来るだけ論理的に考えてみたかったのだ。
結局、自分で納得できるような研究には辿りつけていない。


わずかな研究生活のなかで考えていたことは、「生きがいを問うことは<幸福>であるのか」ということだ。
私たちは、そういった自身の生の根幹に触れるような問いについて、いつも自覚的であるわけではない。
むしろ、その方が健康的であるとも言える。
逆説的な言い方になるが、生きがいということを問わなくても良い状態がもっとも生きがい感が高いということもありうるのではないか、ということだ。


この課題に突き当たった時、自分の研究課題の根幹を問われているような気がしたし、今でも考えてしまう。
人が自分の生の根拠、幸福の根拠を問うということは、<幸福>なのか。


もちろん、こういう言い方も出来る。
『自分の生の根拠に自覚的になることによって、<ほんとう>の生や幸福を知る事が出来る』と。
しかし、私たち平均的な人間にとって、<ほんとう>を知るということが、果たして必要なのか。
また、私たちの生にまつわる自明性をいったん解体したとして、新たに提出する生がそれ以前の生よりも魅力的であるということは必然のことなのか。
逆に言えば、私たちは自らの蒙昧さの向こうによりよいものがあると信じる事ができるのかどうか。
社会は、隣人は、また私たち自身は、今日、自明性の解体の先に、あらたな幸福のすがたを提示し構築する事が出来るのか、またその覚悟があるのか。
夢にまどろんでいた方が<幸福>であったということはないのか。
明晰さの罠(真木悠介)。


また、こういう言い方も出来る。
『今日の私たちの環境は、そうした生の根拠を問わざるを得ない状況へと私たちを追い込んでいくものである。そうした構造的条件下にあって私たち自身の生の根拠を再建するために、むしろ積極的にそうした状況を利用していくべきである』と。
この問いは社会構造分析と社会意識分析とに分かれていく問いの形である。


わずかな研究生活を経て、上記のような問題意識へとたどり着いたわけだが、社会科学の分析枠組みではさらにここから先の問い、つまり「<ほんとう>の幸福とはどういうことか」という問いを問うことは出来ない。
ここから先は哲学、神学、倫理学人間学等のhumanitiesに分類される学問分野の出番となる。


人間の幸福を問うということに関して、社会科学が果たしうる貢献は、その科学性が持つ方法論的厳密さによって問題設定を限定し、厳密な議論を可能とすることである。つまり社会科学は土台たる役割をここで果たす。この土台の無い議論は抽象論に終始し、あるいはタコツボ的理解にとどまる。


人間の幸福を問うということに関して、人文系の学問が果たしうる貢献は、その視野の広さ・議論の歴史的厚さ・天才的発想による飛躍等によって議論や想像力を喚起し、科学によって届かない領域へのブレイクスルーを目指すことである。つまりhumanitiesは<上部構造>たる役割を果たす。この構造の無い議論は、方法論的瑣末主義に終始し、ときにペダンティックな議論で終わる。