はてなクエスチョンにて。

「神はいる、と論理的に説明できるかた、お願いします。」とゆー、大そうな質問がされてました。
ささーっと回答を見てみたんですけど、そのグダグダっぷりがなんか面白かったというか。
グダグダっていうか、ダラダラっていうか。


「論理的に説明して、いったいそれでどうするっていうんだろう」と思っちゃうんですよね、僕なんか。
「だから?」ってさ。
「それでどうすんのさ?」っていうことに応えようとしない問いって、あんまり好きじゃないんだなぁ。
だからあんまり哲学とか好きじゃないんだなぁ(偏見ですけどね)。


この質問をした人が納得できるような回答を得たとして、その人はその「神」を信じるんだろうか?
あるいは、そういう態度(論理的に納得のいく解を得たから信じる)というのは、「信じる」ということなんだろうか?


あ、この質問者さんは「信じますよ」とか書いてないね。
関係ないのか、そういうことは。


でもねー、いち信仰者から言わせてもらうとねー、信じるっていうことから切り離して宗教とか神の存在とかを客観的に論じたり考えたりすることは、あんまり生産的じゃない気がするなぁ。
意味が無いとは思わないけどね。
宗教学っていうのはそういう営みだし、そこから得られるものも膨大だし。


でも「神はいます、でも俺とは関係ない」っていうのは、ありうるんだろうかって思うのね。
論理的にはありうるでしょうよ。
でもね、その論理じたいが、いわば世界内存在なわけで。


やっぱりねー、俺なんか思っちゃうのは、『「信じる」っていう事の方が、「考える」とか「論じる」っていうことよりも圧倒的に強い』っていうことなんだよね。
それは「深い」のかどうかはわからない。多分「浅い」のかもしれない。
だけど、論理で人は元気にならないというかさ、喜びを得ないというかさ。


人間は、どうしたって「何か」を信じながら生きてるよ。
それは神様じゃなくったって、自分自身であったり、お金であったり、権力であったり、子どもの未来であったりもする。
無神論者だって、無神論を信じてるんだからさ。
厳密に言うとこういう考え方は教義学上は正しくないのだろうけど、そういう人間の次元から語ることが何かの「橋渡し」にくらいにはなるような気もするし。


神の存在証明は、「愛の存在証明をしてください」ということとほとんど同じだと思う。
特にキリスト教においてはそれは同じであると言い切ってもいいんじゃないかなぁ。