counter culture or alternative culture?

教会という一つの「システム」は、いろいろなパースペクティヴによって分析ないし理解しうる。
宗教社会学という文脈において、これまでに教会の機能・構造は随分と分析されてきている。
しかし、それはキリスト教が文化に根づいているヨーロッパあるいはアメリカにおいて多く研究されてきている。
宗教それじたいは一つの下位文化(sub culture)と考えられるから、それゆえに、大衆文化(popular/mass culture)との関係のなかで考察されるべきものであるだろう。
つまり、簡潔に言って、大衆文化と下位文化との関係は社会によって異なるのであるから、例えばアメリカでの知見をそのまま日本に輸入できるというようなことはありえないということだ。


教会は対抗文化(counter culture)であるべきだ、という意見がある。
これは世俗文化(secular culture)に対する敵対的な反応ということから、より建設的な良い社会を創るための模範たるべく行動する「システム」、ということまで幅広く解釈しうる概念である。
これまで私は、counter cultureという考え方を取ってこなかった。
そこに含まれる大衆ないし世俗文化への敵対的な反応に、どこかしら嫌な感じを持っていたからだ。
具体的に言えば、文化に価値の高低を設定し、自分は高次元の文化に所属しているかのように、どこか高みから見下ろしているかのような反応に、違和感を感じていたからだ。
その代わりに、代替文化(alternative culture)という理解をしていた。
文化のヒエラルキーを否定する代わりに、多様な生き方の一つ(しかし自分にとってはなくてはならない至高な一つ)として教会というものを、それ一つの「システム」として考える際に、捉えていた。
しかし、alternative cultureという考え方は、非常に危険な考え方につながりやすい。
その表面のみの理解であれば、価値相対主義に結びつきやすい。
あるいは主義としての無教会を肯定することになる。


宗教社会学の文脈において、ということであれば、この二つの分け方で理解は充分であるように思う。
そして教会は社会システムの一部を担うものという理解で正しい。
しかし、キリスト教の正統的な教義の文脈において、そして信仰者として、この分析枠組みでは汲み取れない重要なものが多くある。
多くある、というよりも、汲み取れないもののほうが信仰的には重要である。


宗教社会学的研究:
下位文化の一つのシステムとして教会を捉える場合の、大衆文化との関係。
対抗文化と捉えるときのメリット・デメリット。
代替文化と捉えるときのメリット・デメリット。


信仰者としての理解:
システムとしてとらえるときに零れ落ちる多くのものの、信仰者としての確かな理解。マタイ16章そして使徒行伝を中心に。
対抗文化と捉えるときのメリット・デメリット。
代替文化と捉えるときのメリット・デメリット。