泣いている人たち。悲しみの果て。

「あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。」(ルカによる福音書6:21)


Sermon on the Mountの授業は佳境を迎えています。
今日は六章を終えました。
一つひとつが自分のこころと響くように、自分をひらいて授業に臨むようにしています。


先日、学校の方からメーリングリストがまわってきました。
そこには、私のこちらでの最初の授業を受け持ってくれた先生が、検査の結果シリアスな癌である可能性が高いことがわかり、是非覚えて祈ってほしいとのことが書かれてありました。


その先生は、オランダから移住してこられた方で、言葉がよくわからない僕のことをよく気にかけてくれました。
神義論の講義のときには、ご自身の親族の課題(sexual abuse)を涙をながしながら切々と語ってくださいました。
一見、コワモテなんですが、笑顔がすてきな先生で。
授業のregistration関係の仕事もなさっておられるので、何回か受けるべき授業について相談に伺ったこともあります。


僕が通っている神学校は、毎週木曜日にSeminary chapelがあって、その後皆で食事をとります。
クラスメートと食事をとっていると、その先生が僕の向かいに座りました。
後で考えたら、その席はいつもその先生が座ってた席だったみたいです。
「こういうときにはまずいのかな」と思いつつ、体調についてうかがってみました。
一瞬困ったような顔をされたので、「やっぱりまずかったかな」と思ったのですが、とても率直に語ってくださいました。
「自分でもまだ受け止め切れない」
「授業では『grief careの際にはいくつか段階があって・・・』とか言ってるけれど、実際はそれどころじゃない」
「自分が授業で語っていたことが、ほんとうに今試されているように思う」
などなど。
自分が置かれている課題を前にたじろいでいる姿を、いわばあけすけに語ってくださったのがとても印象的でした。
そして僕はそれを黙って目を見て聴いているだけでした。


自分の死を意識した人を前にするということは、そこにいるだけで苦しいものですね。
正直に言うと、たびたび席を立ちたくなってました。
さらに僕は英語が不自由ときてる。
僕は目の前で「死ぬかもしれない」と思っている人に、何にもすることが出来ない。
気の効いた優しい一言も出てこない。
出来たのは、ヘタクソな英語で一生懸命しゃべって、ちょっと笑わせることができたくらい。


彼をほんとうに慰めてくれるのは僕なんかじゃないことは知ってるけど、なんだかものすごく悔しくて悲しくて、すこし泣きました。


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エスは、どうだったんだろう。
死を目の前にしている人、悲しみの只中にいる人、絶望してやけっぱちになっている人たちを目の前にして、何を思い、何を願い、何を祈ったのだろう。
僕はそれを獲得したい。
エスが何を、どのように、見て、感じて、喜んで、悲しんで、怒って、願ったのか。
それらが聖書に書かれていることは知っている。
僕はそれらの知識ばかりでなく、それらのリアリティを受け止めたい。
いわば、「イエスのリアリティ」を共有したい。