See you again, someday in Heaven.

今日はSeminary Chapel Serviceがある日でした。


以前少し書きましたが、僕が最初にこちらでお世話になった先生はやはり重篤な癌であることが分かりました。
今日の礼拝では、みんなでそのことを覚えて特別の時間を持ちました。


検査の結果は、残念ながら何も医学的な治療が出来ない程に進行してしまっている、とのことでした。
そのため、彼と奥様はこの夏、ご子息の住んでおられるOntarioに移るとのことした。


いつもよりかなり多くの人がチャペルに集まりました。
学長、彼が通っている教会の牧師、特別に親しい同僚の先生が代表して彼のために祈り、学長が癒しを祈って油を彼の額に付け、そして最後に彼が私たちに「別れのあいさつ」をしてくれました。


それは確かに悲しみの時でした。
しかし同時に、いやそれ以上に、「よろこび」の時でもありました。


死を前にした人が語る言葉。
それは確かに重く、悲しみを帯びていました。
愛する者を残して先に逝かねばならないことへの、痛み。
涙のなかで一言ひとこと言葉を選ぶように語ってくれた彼。
しかし彼の姿は、その辛い<現実>に打ちひしがれてしまった者とは確実に違うものでした。
自分が直面している現実、それを見据えると同時に、その「向こう側」を展望する彼の姿に、僕は不思議な安堵を覚えました。


僕は、信仰者です。
だから、というわけじゃありませんが、彼が癒されることを願います。
その奇蹟を願います。
けれども、物事は僕らの願いどおりに動くわけでは、無い。
たとえそれがどんなに切実な願いであったとしても。
けれども、僕が思うのは、きっと奇蹟というのはそういう形でしか表れえないものではない、ということ。


親族でもない、特別に親しい友人でもない、人種も国籍も年齢も違う。
そんな人たちが一同に会し、一人の初老の男性のために祈り、涙する。
おそらく、奇蹟の萌芽のようなものは、彼と僕らのあいだにあったのだろうと思います。


最後までユーモアを忘れなかった彼。
笑いと涙のなかで、僕らは彼を祝福のうちに送り出すことが出来たように思います。