Grief care as a pastoral task

昨日ニュースを見ていたら、Saskatchewanの小さなcommunityで、兄弟がライフルを誤射して妹(姉?)を殺してしまったという事件を報道していた。
これじたいとても悲惨で悲しいニュースなのだけれど、それ以上に僕にとって気になったのは、intervieweeとして最初にニュースに出てきたのが、その家族のfamiliy pastorだったということだ。


そのcommunityは、確かに小さな集落だろうが、今僕が住んでいるようなChristian communityというわけではないと思う。
その意味で、「コミュニティ」という語彙が持つ穏やかな保守とでもいうような雰囲気の集落ではないだろうかと思う。
そういうところで起きた悲劇にあたって、最初にいわばその家族のspokesmanとして口を開いた人が牧師であったという事実、あるいはそのように了解されていることに僕は驚いた。
と同時に、pastorという言葉の意味をあらためて考えた。


悲劇に直面した家族に最も近い存在として、そのコミュニティでは牧師が位置づけられている。
grief careということを考えるに当たって、日本の文脈では、一体何がその機能を代替しているのか、あるいはしていないのかを考える。