「選ぶ」ということから考える。

山口で大学生をしていた時、当時の学部長ととても親しくさせていただいた。
先生は発達心理学の授業をもっておられたが、なかなかに熱い先生だった。
授業の内容はあまり覚えていないが、授業中に発したいくつかの言葉がとても印象的な先生だった。
その中の一つ。


「一人を選ぶということは、他をあきらめるということだ。」


どういう流れでこの一言が出てきたのかは覚えていないのだけれど、良く覚えている。
「名言だなぁ」と思ったのだろう。


選択ということは、断念をともなう。
と同時に、自ら選んだ選択肢への責任というか意志というか、integrityが伴う。
伴う、というかそうせざるをえない。
「これで良かったのだ」という思いの裏側には、「これで良かったのか」という思いがぴったりとくっついている。


生きるということの過程には、「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」の選択を迫られる瞬間が必ずある、と思う。
もちろん、僕らの生や生の感覚はいつもそんなに切羽詰った状況にあるわけではないけれど、そういう瞬間は、ある。
選んできた道のりとその正しさを願うこと。
その選択の背後に有る、膨大な「選ばなかったもの」「選べなかったもの」への愛惜と、それを断つ意志のようなもの。
生きていくことは選択の連続であり、だからそれは言ってみれば、断念の集積だ。
それゆえ、人の歩みの中にはその人の人生観・価値観が如実に表されてくる。


神は、アブラハムを選んだ。イスラエル民族を選んだ。
それ以前に、人を創ることを、世界を創造する事を、人を救うことを選んだ。
一度ならず、神は自分自身の選択に対して後悔さえした。
にもかかわらず、自身の約束を反故にすることはなかった。
自らの約束を成就せずんばあらず、ということの記録が旧約聖書であり、人間の歴史だ。


神はご自身の選択に対して最後まで責任を持たれる。
この確かさを信じる者として生きていること。
そのような生を選んだ者、否、選ぶようにと生かされていることを知りつつある者をキリスト者と呼ぶのではないだろうか。