無原則社会における宣教のためのメモ。
missionに関するレポートを書くために、いろいろなテキストを読んでいる。
missiologyの中心的な関心事は、様々な文化のなかで、いかにしてキリストのおしえの本質を伝えるか、ということに集約できると思う。
その際、「host country/societyの文化を良く知らないといけない」ということは当然のこととして出てくるわけだが、こと日本社会を考えてみると、「それだけでは済まない」という気がしてくる。
日本は多神教の文化圏だと言われている。
けれども、この言い方にはかなりの語弊がある。
多神教文化圏とは、所与の地域社会において、さまざまな宗教が混在しているという文化圏を指すけれども、この際前提とされているのは、「いち個人は特定の宗教に所属している」ことである。または無神論者として宗教を否定する立場をとる人がいる、ということである。言い換えれば、宗教をもつ/もたないのdichotomyが、ここでは前提とされているということである。
このことを前提として日本の宗教事情を顧みると、日本人は宗教をもつようでもあり、もたないようでもある。
このことが具体的に表れてくるのが、特定宗教の会員数であろう。
日本の総人口はおおよそ1億2,500万人であるけれども、一説によると諸宗教信者の総計は3億を越えるという。
いち個人が複数の宗教団体に同時に参与していることに、なんら違和感を感じないのが日本人である。
このことは、一神教文化圏だけでなく、多神教文化圏においても特異なことである。
多神教のひとつであるヒンズー教徒が、「私は多神教徒ですから」と、同時に仏教を信じるということはありえない。
宗教をひとつの制度として考えると、それはひとつの価値原理を指し示す。
つまり、キリスト教徒にはキリスト教徒の、イスラムにはイスラムの、仏教には仏教の、アニミズムにはアニミズムの…原理原則があり、それを信じる者はその原理を内在化させていることが前提とされる。
しかし、日本人にはそのような原理は存在しない。
正確に言えば、宗教の形として体系化された日本人の心象を形作り規制する原理をもたない。
つまり、日本(人)には、少なくともmissiologyがこれまで把握してきたような、社会には当然あるはずの価値原則が存在しない。
それゆえに、これまでの知見を充分には参照できない部分が多いように思われる。
言い換えれば、批判が効果的な批判たりえず、まるで空を切るかのような反応しか引き起こさない。
この日本の宗教的文脈を「日本教」と表現する評論家もいる。
その妥当性はさておき、よく言えば鷹揚な、悪く言えば節操がなくご都合主義的な、無原則社会日本という宗教的文脈を、これまでのmissiologyの知見からどのように検討するかが問われる。
この際に覚えるべきは、無原則社会ということは、そこが「真空」であることを意味しないということと、過度に「日本特殊社会論」に傾くことによって、宣教が新たなマーケティング事業に堕してしまうことを避けることであろう。
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