対抗文化としての友情。

J・フーストン師(カナダ・リージェントカレッジ元学長)の講演会が日本であったようです。
本を枕に−編集者の日々さんのところで、感想とコメントがなされています。参考になります。
その一その二その三


興味深かったのが、「その三」。
友情ということについてです。

冒頭の部分で、フーストン氏はこう語りました。


「たぶん、北米の神学校だと思いますが、教授が学生にこう教えていました。『牧師になったとき、信徒とあまり親しくなってはいけません。距離をとりなさい』と」
そして、間髪を入れず、こう言いました。


「バカげたことです!」(クレージー!)


(中略)


フーストン氏は続けました。


「イエスは、よき教師であったばかりでなく、友になってくださいました。ですから、牧会者も、信徒のよき友になることが大切です」


「この世の上下関係という価値観を、教会に持ち込んではなりません」
(日本のタテ社会を知った上で、こう言われたのかもしれません。)


「技術社会がますます進んでいき、人々の孤独がますます深まっています。教会は、それへの対抗文化を形成すべきであって、その中で大切なのは『友情』ではないでしょうか」

http://amendo.exblog.jp/5556387/


希望格差社会」ということがいわれ、日本社会が急速に市場原理主義化していくなかで、人々の実存の不安は急速に増大する。
かって帰属しえたコミュニティはもはや無く、人生を捧げるにたりえた会社共同体も無い。社会の基盤が急速に空洞化していくことと同時に(あるいはそのことによって)、格差社会は完成する。
今後の日本において、あらゆることの前提として踏まえるべきは、日本は80年代までのような社会とは大きく異なった格差社会として存立するということと、団体所属を前提とした集団主義的社会から、個人どうしのゆるやかなつながりが重視されるネットワーク型社会という、二つの点であろう。


そのとき、私たちは誰を「友」と呼ぶのか。
教会は、その宣教の視線をどこに向けるのか。
「隣人とはだれか」という問いに加えて、「友情とはなにか」「わたしの友人はだれか」という問いが切実な問題提起になりうるように思う。
今一度省みるべきは、私たちのうちにある「友情」のイメージだろう。